東京に家を建てる
まさか東京に家を建てることになるとは思っていなかった。息子が4歳を迎えようとするころだったか、妻が「家はどうする?」と。
広島と東京を行き来する生活の中で、数年前広島ではマンションを購入し、東京では賃貸での生活にも慣れた頃だった。言うまでも無く東京の土地は高く、都内で家を所有することはないだろうと思っていたし、長く東京にいることも想像していなかったが、妻の一言で、東京で家を建てるという現実が、ある日突然やってきたのだった。
その日を境に、夜な夜なネットで敷地を探す日々が始まった。これまで150件を超える住宅を設計してきたが、実際に自分が建てる側になるということは、とても貴重な経験なので、noteという有料ブログに少しづつアーカイブを残しながら、どのようにして家をつくるということが現実味を帯びていくのかということを書き残していくことにした。言うまでも無く、無い袖は振れない訳で、一般的には世帯所得の5倍くらいが融資の限界と言われている中で、この地価の高い場所で敷地を探すとなると、自然と小さな敷地に狭小住宅を建てるという道が自然と出来上がっていた。仕事での移動を考えると、郊外に住むという選択肢は考えにくく、かといって都内となると坪300万を超えるような敷地ばかりで、20坪の敷地でさえ6000万円を超えてくる。建築費も高騰している状況を考えると、建坪率60%で12坪の3階建てで36坪。坪単価150万円として、5400万円は工事費がかかり、不動産を所得するための手数料、税金もろもろ考えていくと、小さな敷地でも億を超えていくことが容易に想像出来た。仮に1.2億として考えても、頭金はさておき30年のローンで金利1%だとしても、月々38万円をこれから30年払い続けるとこの現実を考えると、当時44歳だったので74歳までは働き続けなければならないということになる。ローンを組んだとしても、いまはおかげさまで日々忙しくさせて頂いているけれど、それがこれから30年も続いていく保証などどこにもない。そんな不安を誰もが抱えながら、マイホームを手に入れているのだという現実を、今更ながら施主になってはじめてリアルに感じたのだった。
それでも変形敷地などの悪条件な敷地であれば、坪単価も下がるだろうと考え、毎夜、インターネットで、【狭小、変形敷地、傾斜地】などのキーワードを入れての検索を続ける日々が続いた。自社で絶景不動産という不動産会社を経営をしているので、不動産業者専用サイトのレインズでも、都内で5000万円以下などの条件検索を繰り返していたが、なかなか思ったような条件では敷地に出会うことが難しく、見つかってもそこにこれから長く住み続けて行くことが想像出来ない敷地ばかりだった。
あるとき、自分の財布事情はひとまず置いておいて、もう少し広い敷地を探してみることにした。すると40坪~50坪くらいの敷地の情報がそれなりに出てきた。住宅としてはある程度の所得がないと購入出来ない価格帯でありながらも、マンションなどのデベロッパーも、さほど世帯数を詰め込むことが出来ない、ある意味で手を出しにくい広さのレンジがそこにあるのかもしれないことが少しづつ理解出来てきた。それまで利回りという言葉は知っていたが、具体的に何を意味するモノかはわからないまま、5%くらいなら都内だとよしとするみたいな認識しかなかったのだが、はじめてその利回りの算出方法も学び、賃貸と併用の事業モデルとして全体の計画をたててみることにした。
商業系の地域は坪単価が高くなるため、住居系の地域で敷地を探しては測量図を取り寄せ、ラフプランをはめてみては自宅と賃貸併用での無理のない返済計画になっているかを、多くの敷地でトライアルを繰り返していった。
都内中心部、住宅系の用途地域で50坪程度の敷地だと、坪単価400万円程度で敷地で2億。建坪率60%で30坪/100m2の建坪で、容積率160%(前面道路4m想定)いっぱいまで建築できたとして、80坪。つまり3層の建築で30坪/100m2の1層、2層と3層目は20坪・66m2の室内と33m2のテラスの形態が導かれる。80坪/264m2を坪単価150万円で建築したとして、1億2千万円。土地建物で3.2億に対し、自己資金を2,000万円として、30年返済で金利を1%と見込むと月額964,000円。30坪/100m2を自宅として考え、残りの50坪/164m2を賃貸として、都心で坪2万円くらいの相場として、賃料が100万円。階数によって金額変動もあるとしても、自宅部分での費用負担を考えれば、無理のない支払い計画かつ、都内にある一定の広さを確保出来ることが解った。また万が一、仮に自分自身が働くことが出来なくなったとしても、自宅部分を賃貸にすることによって、ローンの支払いで困難な状況になることは避けることができる計画とした。上記のような条件を前提とし、50坪前後で、道路斜線、日影に有利な敷地条件に絞り、敷地を探すという明確なゴールが見えてきた。エリアを絞り敷地を探しては測量図を取得し、計画をして事業収支を確認する、そんな筋トレのような日々を過ごした。
あるとき敷地を探していることを気に掛けてくれていた不動産関係の友人から電話がかかってきて、良さそうな敷地の販売情報が出ているよと写真が送られてきた。そこにはカラーコーンに張り紙がされた、よく電信柱などに貼られている不動産情報と同類の内容があった。正直、この手の張り紙に電話をすると電話の向こうに怖い人がいて、かけたら最後、無理矢理購入しなければならないみたいな、テレビでありそうなストーリーを勝手に想像していたので、怖くてかけることをためらったが、友人曰く大丈夫だからかけてみたらと背中をおされ、恐る恐る電話をかけてみた。すると、あくまで電話口での印象だけれど、好印象な方が電話に出て、その不動産情報のことを丁寧に教えてくださった。生憎、その情報は僕の希望するモノではなかったのだけれど、都内の情報に明るい不動産会社さんだったので、後日お目にかかり、具体的な情報を伝えて敷地を探して頂くことにした。数週間後、「とある場所にこれから敷地が売りに出される場所があるので見て下さい」と連絡をもらった。早速現地に足を運び周辺状況を確認した後、夜なべをして計画をした。何度も何度も繰り返しトライアルをしてきた空想の計画に限りなく近い状態で、建築を計画できると確信した。翌日、人生で始めての土地取得の申し込みを入れ、我々の都内での家づくりが始まったのだった。
具体的な計画として、掘り込み車庫のある段差の敷地に道路から直接入ることの出来る地下一階、階高を確保することで閉じながらも開放感をつくる二階、最大限持ち上げられた視界の抜ける三階のボリュームを立ち上げ、光の安定する北面採光を基本とした計画にすることにした。間取りも将来的な可変性に対応出来るよう、外周部をコンクリート、内部に木造でボリュームを配した。個別性による作家性ではなく、画一的でありながらも作品として成立している誰もが住める状態を求め、プロポーションを検討し、平面・断面計画を行っていった。
今まで設計してきた家の対極とはいわないが、明るさよりも暗さをつくるために開口部の数を絞り、光のグラデーションをつくる。細さよりは存在感を持たせ、薄さよりは厚みをつくり線の数はむしろ増やし陰影を作り出す。粗い材料を繊細に扱い、無機的ではなくマテリアルが主張する有機的な空間。空調は用いず、夏は天井にルーバー状に配したパイプに冷水を通し涼を、冬は床下に温水を流し暖炉の火で暖をとる。
それは幼少期を過ごした町屋のように、鰻の寝床にある中庭を暗い室内から眺めていた原風景のようで、夏は水をうつことで気圧の変化によって風を起こして涼を得て、薪を割り五右衛門風呂にくべる、自然界にあるものを利用した過去の生活を現代に持ち込んだかのような空間だった。
柱や梁・砂壁の質感が暗く静かな空間に暖かみをもたらしていた空間体験は、コンクリートを荒々しくも繊細につくることで暖かいコンクリートとして再現し、不便で住みにくかった幼少期のネガティブな思い出は、時間を経て、むしろあの頃の空間風景をどこかで追い求めている自分がいた。
正直に話せば、良い建築をつくることよりも、どうやって家をつくることが出来るのかということが当初は主となっていたが、日頃どれだけ設計という行為がある意味で予算に納めるということは考えてはいるものの、建て主の経済環境までを理解して設計してきていないということを気づかされる経験でもあった。建築家は依頼主によって決められた予算で建築をつくることにエネルギーを注ぐ。しかし、その向こう側にある経済を想像したことがどれだけあっただろうか。それは個人のクライアントであったとしても、商業系のプロジェクトであったとしても、その背景にある経済という仕組みを我々建築家が理解したとしたならば、時には提示された予算についても助言可能になるだろうし、よりそのプロジェクトにコミットできるようになっていくのではないだろうか。建築をつくる以前と、作った後のことまでもを、設計の範囲と考えたならば、きっと依頼主はそこまで考えてくれる建築家に仕事を依頼するだろう。大きな金額が必要になる建築のプロジェクトだからこそ、経済と建築のバランスをも設計する、それが今後、我々に必要な事なのかも知れない。良い建築をつくり、それに共感をして頂いて仕事を依頼して頂く。僕自身も、心からそうありたいと思っている。同時に、今回の自宅をつくるというプロジェクトを通して、建て主は、新しい新居への希望と経済不安のバランスの中で、建築が作られていくのだと心から理解した。経済活動と建築、どこかで分けてしまっていたこの関係を、今一度考え直し、良い建築について今後も考えていきたいと思う。
過去に思いを馳せるという感性を持ちながらも、現代だからこそ可能なエンジニアリングを駆使し、洞窟のような自然環境をここでは建築化した。多くの迷いや挑戦の中で、過去の記憶と現在の思考が混ざり合い、以前からそこに建っていたかのように自邸は完成した。